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杉田敦(批評家) art & river bank ― Migakikko展覧会テキスト

《みがきッコ(MIGAKIKKO)》は『笑い展』(森美術館 / 2007)の出展作家である山本高之と、京都でオルタナティヴ・スペース“muzz program space”を運営する出口尚宏によって企画・実行されるプロジェクト名、およびプロジェクト実行ユニット名で、昨年のドクメンタ12の際、マガジン・プログラムで参加した“METRONOME - Living Newspaper"提供のパフォーマンスとして、正式招聘されている。具体的な内容としては、山本と出口によってデザインされた「かっこいい」シャワー・マシンを身につけた子供たちの手で、参加者や関係者の車が洗われ、磨き上げられるというもので、背景となった伝説的な洗車ヒーローにまつわる物語や、アニメーション、グラフィティ・イヴェントまでが発展的に計画されている。無邪気な悪ふざけのようにも見えるパフォーマンスが意図するものは何なのか、人々は、彼らのパフォーマンスを前にしてなんとも居心地の悪い思いをさせられることになる。

カッセルのドクメンタ会場での彼らのパフォーマンス映像は、《みがきッコ》が、単に鑑賞者を不安にさせるだけでなく、奇妙な両義性に充ちていることを教えてくれる。世界最大の現代美術を目にしようとやってきた人々は、自分の子供たちが栄えあるアート関連イヴェントに参加できることを素直に喜び子供たちを送り出す。浮かない顔で、ぎこちなく洗車する彼女や彼に、洗車のコツを丁寧に教授する山本と出口。しかし、しばらくすると軽い気持ちで子供たちを送り出した親たちは後悔することになる。山本と出口の妥協のない指導のもとでは、自分たちの子供たちが与えられた使命をまっとうするには、思っていた以上に時間がかかるということに気づくのだ。けれども、親たちの後悔や諦念を尻目に、時間が経つにつれて、子供たちは自分たちに与えられた使命のなかに達成感を見い出して輝き始める。アートの鑑賞という本来の目的から遠ざけられたことに対する焦燥を覚える大人たちとは反対に、一見するとアートとは無関係な行為に没入することで、ますます深くアートの内部に呑み込まれていく子供たち。洗車を終えて、《みがきッコ》としての自信に充ちた表情を浮かべる子供たちは、そのときりっぱに一人のアーティストになっているのかもしれない。

小学校で実際に教鞭をとる山本高之の作品には、繰り返し子供たちが登場する。『笑い展』に出展された『スプーン曲げを教える』も、秘奥を授けた子供たちに、カメラの前でそれを実践させるというものだ。上手にそれをこなすものもいれば、秘奥であるがゆえに抵抗を覚え、なかなか任務をまっとうできない不器用なものもいる。一体彼女や彼らの姿が伝えるものは何なのか。ぎこちない彼らの姿は、大人たちの社会のなかでのパフォーマティヴな在り方そのものを問うようにもみえれば、展覧会の表題のように、笑いのなかに呑み込まれてもいく。子供と大人が、真実とパロディが、繰り返し相互に呑み込み合う。子供の子供、大人の大人、真実の真実、そしてパロディのパロディ……。ドクメンタでの《みがきッコ》のパフォーマンスには後日談がある。ドイツでは、野外の公共空間での洗車は禁止されているという。前回のPC的な意識を敷衍したはずのドクメンタの底が、静かに抜け落ちていく。果たして、彼らはそこまで計算していたのだろうか?

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